代通寺縁記
大渕の曽比奈は、蘇弥奈が訛ったものと伝えられている。延喜式に蘇弥奈は、朝廷が駿河の国に設けた三つの牧場のうちの一カ所であると記載されている。
曽比奈の北、大渕字丸山、井上あたりは、現在八王子本町と呼ばれているが、この辺にはその名の由来である八王子神社がある。口碑によれば創建は八百年を優にさかのぼるという。もともとはスサノオノミコトの五男三女をまつる神社であるが、昔は痘瘡(とうそう)よけの神として名高く、勧請にまつわる種々の伝説や頼朝伝説も伝わっている。
また近くには、この辺りで唯一の水の湧く、八王子ヶ池がある。昔の大渕村は生活用水をこの水に頼っていた。湧き水の存在や口碑からも、この地は遥か昔から集落を形成していたようである。
興流山代通寺は、この湧き水の近くに承応2年1653年)8月13日、西山本門寺、第十八世日順上人の弟子、円立坊日通上人により開創された。承応2年は、家綱が徳川幕府四大将軍となって二年目。日順上人は西山本門寺の中興の名僧。弘教力に優れ、京都で布教、後水後天皇の息女、常子内親王の深い帰依をうけた。常子内親王の息女天英院が、徳川六代将軍の御台所であったことから幕府に厚遇され、西山本門寺は十万石の格式を付与された。本山がそのような隆盛を誇った当時、末社である代通寺も当然その恩恵を受けたことであろう。
代通寺は二〇〇二年には開創三百五十年を迎える。六老僧の一人日興上人の流れをくむ富士本門宗に属していたが昭和十八年の三派合同により日蓮宗に改宗する。連綿たる寺歴を持つ代通寺も、一時は本堂が養蚕に使われていたほどに荒廃。復興したのは現在の住職橋爪一能住職の父橋爪大賢上人。(第十八世日秀上人)。日秀上人は、佐賀県の松尾山光勝寺の貫首となった北村大成上人を師に、その法子として、開教司監の特命を受けた師と共に邁進。その後約十年間光勝寺執事として師の給仕を務めた。
昭和二十七年には仏縁あって代通寺の住職となる。同時に村立大渕中学校に赴任。教員歴も二十年に及んだ。
昭和四十八年、本堂、書院、庫裡を建立。昭和五十三年、梵鐘鋳造、鐘楼堂建立。その後、寺号塔建立。境内整備拡張を成し、平成五年、参道整備、墓地造成計画推進中、日秀上人は八十歳で遷化された。
法灯を継承した橋爪一能住職は、長く高校教員の職にあったが法華経弘法の道に専心。平成八年には永代供養墓「日輪廟」を建立。後継ぎのいない人も、五十回忌までの追善供養と、毎年のお盆、彼岸の永代供養と回向をしてもらえるということで、入廟を希望する人が多くなっているという。
興流山代通寺の真北には、夏の青々とした富士がそびえ立ち、静寂に包まれた境内を一陣の風が吹き渡る。作務衣姿でひとり黙々と草取りにいそしむ一能住職。泰然自若としたその風姿と、篤実で親しみやすい人柄に、檀信徒の信望もあつい。
【平成10年9月20日 岳南朝日新聞 掲載文より転載】
